箱庭と梯子

研究テーマ

卒論の構想を少しずつ書いている。

自分は喪女とこじらせ女子のどちらを扱いたいと思っているのかが分からなくなってきて(どっちにしろ当事者研究という形になりそうだが)、少し前は喪女板をひたすら読んでいた。

なんというか、読んでいて非常に辛かった。

悪気なくぶつけられる言葉が価値観を変えてしまうことがあることは自分も身をもって知っているから、「同情」とか「共感」とかのような甘っちょろい言葉では片付けられないような感情がぶわっと出てきて、苦しかった。

 

 

それから今度は、雨宮まみさんの『女子をこじらせて』を読んだ。

これは1年前に読んだことがあるのだけれど、なんというか…こんなに強烈な本だったっけ、と思った。

それでも、読むのを止められなかった。

こじらせ女子という言葉は時に悪意をもって使われるような気がしているのだけれど、その言葉に追加されたニュアンスを弾き飛ばすくらい力強いエッセイだなぁ、と思ったから(…まぁ「こじらせ女子」って言葉が誕生したのはこのエッセイが書かれたからなので、時間軸的におかしいかもしれないけど。文庫版のあとがきは特にそんな感じなので見逃してください)

「前向き」とまとめてしまうのは乱暴な気もするのだけれど、もがいている著者の言葉はすごく生々しくて、それゆえのエネルギーに満ちているように感じた。

 

 

それで、ここでぐるぐる悩んでいた。

喪女とこじらせ女子のどちらでも、自分以外の当事者の語りを聞くことで得るもの、知るべきものがあると思った。

言い方は悪いけれどどちらも魅力的で、どちらをテーマに据えればいいのかが分からなくなってきたのだ。

 

 

今度は社会心理学の本を読んだ。

ジェンダーステレオタイプと自分らしさの2つが衝突することで苦しさが生まれる、その苦しみから流れるには「自分らしさ」を追求してください…みたいなことがさらっと書かれていることに、正直違和感があった。

自分の内面の葛藤を「私は私らしく生きる!」という意志の力でねじ伏せている、みたいな印象があったのだ。

 

なぜ「女性らしさ」という言葉に苦しまなければならないのかと言えば、外見・行動・パーソナリティ…といった、自分を構成する色んなことがジェンダーステレオタイプと結びついているからだ。

「自分」とさらっと書いてしまったけど、これは純粋に自己を指しているわけではなく、他者(の一部)を含んだ自己概念を指すイメージだ。具体的には交友関係など。

 

そんな複雑な問題を「自分らしく生きる」という解決策で片付けていいのだろうか?周りは変わっていないのに。

いや、「変わる前から変化する努力をぶん投げるのもどうなのか」という感じではあるのだけれど。

 

私は「女性らしく生きる」も「私らしく生きる」も、社会的に推奨されている2大スタイルのように感じていて、そのどちらかだけを良いものとして追いかけていくのは危ういなぁ、と思っている。

あとこれは個人的な考え方だけど、それしか生き方ってないのかな、と疑問に思う。「女らしく」呪文や「自分らしく」呪文を唱えられてるみたいで、なんとなく閉塞感ない?

 

生き方くらい好きに選ばせてくれればいいのに、と思う。

「自分らしく生きる」という考え方には賛成なのだけれど、その言葉を唱えられるたびに「自分らしく生きる”べき”」と言われているように感じるのだ。

大げさだと思う人もいるだろうけど、物心ついた頃からあらゆる場面で「個性を尊重」呪文を唱えられてきた私は「自分らしく生きないとダメ」と言われているかのように感じてしまう。

 

…まぁ、こんな感じでぐだぐだ考えていた。

もうどこから手をつければいいんだか。

 

ただ、「自分らしさ」と密接に結びついているのは「こじらせ女子」かな、と思った。

それ以外にもこちらに絞った理由はあるのだけれど、もう少し考えがまとまってから書こうと思う。