箱庭と梯子

はじめに

*2018.10.14 更新

 

 

はじめまして、彩と申します。

このページはかなり書き直したので初々しさは皆無ですが、自己紹介にあたるページなので気合を入れて書きました。笑

よろしくお願いします。

 

 

*プロフィール

2018年10月現在、某大学で社会学ジェンダー論)を専攻しています。
趣味は読書・ビーズ手芸・ゲームで、最近はタイポグラフィを作ることもあります。なお、絵心は皆無です。

好きな本は桜庭一樹さんの『赤朽葉家の伝説』『青年のための読書クラブ』、宮部みゆきさんの『ブレイブ・ストーリー』『小暮写眞館』など。

またAAAが好きで、強いて言うなら宇野ちゃん推しです。

 

ブログを書くのは初めてではなく、これで4個目くらい。ちょっと飽きっぽいところがあるので、このブログはちゃんと続けたいです…。

 

 

*このブログについて

もともと書き始めたきっかけは、卒論について考える時期に入り、自分の考えたことを記録していく場所が欲しかったから。

そんな私の卒論のテーマは「『こじらせ女子』の生きづらさについて」(※まだ仮のものです)。割と最近の流行語を取り入れているあたりミーハーっぽい空気が漂っていますが、要は「『女性らしさ』として語られる性規範が自意識とどのように結びつき、息苦しさをもたらすのかについて、当事者の語りを通じて探る」というものです。

これだけだと説明不足なんですが、それはともかくとして

…暗い。暗いですねぇ。

私にとって「こじらせ女子」とは自分のことでもあり、このブログを書き始めた頃は自分のコンプレックスを直撃しながら文章を書いていました。当然、更新頻度もあまり高くありませんでした。

 

ただ、ブログを書くメリットとしては「日記として自分の考えたことが残ること」や「文章力が上がること」も挙げられるし、そもそも自分が普段考えていることは「女性らしさ」がどうこう、といった話だけでもない。

「それならいっそ雑記ブログに方向転換して更新頻度を上げる方がいいんじゃ?」と考えたので、今後はもう少しくだけた印象のブログになる予定です。

 

 

*名義について
他のサービスでは本名と1mmくらいしか関係のないハンドルネームを使っているのですが、自分の考え方が色濃く表れるような文章には真面目に向き合いたいという気持ちがあり、本名により近い名義を使うことにしました。私の別のハンドルネームを知っている方は、華麗にスルーしてください。

また、万が一知り合いがここを見つけた場合は今すぐUターンしてください…切実なお願いです…。

 

 

 

ちなみにここまで基本的にですます調で書いていますが、実際には見事に入り混じった文章になると思います。細かいことは気にしないでやってください。

先輩たちを見送った話

 

前回の記事から更新するまでの間に、無印良品について人生で一番真面目に考えてレポート書いたり、本の書き込みについてレポート書いたりしていた。
レポートのテーマが年々カオスに進化(?)しているのは、多分気のせいではない。文学部生あるある。

 

それは置いておいて。

2つのゼミに所属している関係で2つの卒論発表会に参加してきたので、記録しておきたいと思う。

 

片方は、家族社会学のゼミの卒論発表会だ。

 

夏休み合宿で先生にものすごい怒られ方をされ、その後「体調を崩して」留年確定するという凄まじい状態の先輩が1人いるけれど*1、まあ、それ以外は概ね平和に終わった。

卒論テーマのなかには、既婚女性のアイデンティティを表す言葉が「主婦」という言葉に集約されていることを指摘するものもあって、「自分らしさ」と「女らしさ」と「私らしさ」の関係を見ていきたいなと思っている自分にとって興味深かった。

それを差し引いても、4月からずっとゼミで先輩たちの卒論が仕上がっていくところを見ていた自分としては「卒論ってこんな風にステップアップしていくのか~~~」(※「~」部分に私の感慨が表れている。いや、執筆者なのに感じるのは変なんだろうけど)という感じ。

 

さて。

肝心の私の卒論なのだけれど、就活に押され気味で(いや、就活ガチ勢に比べたら全然なんだろうけど)なかなか文献を読めていない。

とりあえず使えそうな文献のリストアップでも…と思ったのだけれど、「自分の生き方について」の指南書みたいなものはあっても、社会学の視点で「”自分らしく生きる”という社会のメッセージについて分析する」という趣旨の本は、案外ない。

検索条件を「自分らしさ」だけに設定しても、他者との表面的な差異(ファッションとか)か、就活における自己分析の文脈で語る本しかない。

なんとか使えそうな文献を探し出したはいいものの*2「自分らしさを生かしたリーダーズマニュアル」みたいな怪しげな本を数冊借りることになり、図書館スタッフさんに胡乱な目で見られてダメージを受けた(気のせいであってくれ…)。

 

これでも「自分らしさ」の方はまだいい方で、「私らしさ」に関する資料に至っては全くない。

仕方ないのでKH Coderというツールで新聞記事でも試しに分析して傾向でも見てみようかと考えている。

 

まだ分析まで行っていないが、ざっと本文を見ている感じ、

・「自分らしさ」:「個性」「私らしさ」と混同されている観はあるものの、青年の生き方などに対して用いられる傾向がある

・「私らしさ」:「自分らしさ」と混同されている。(一般的に言って)女性の一人称が含まれるので「女性の生き方について用いられる傾向がありそう」と思っていたが、意外と色んなところで使われる。

個人的に面白かったのは、憲法についての記事で使われていたこと。公私の利害対立ということで意図的に用いているのかもしれないけど、「自分らしさ」が自分とその周囲で完結するのに対して、「私らしさ」は社会における関係性のなかでも論じられる余地があるのかもしれないと思った。

 

 

私の卒論は無事完成するのだろうか…。

まあ、その心配ができるのは就活が終わってからですね。就活頑張ります。

 

 

もう片方は、メディア研究のゼミの卒論発表会。

こちらは社会心理学の視点からメディア研究を行うゼミで、去年の先輩たちがかなり熱意のある人たちだったのだけれど、その先輩たちが抜けた途端、ゼミがゼミとして機能しなくなったのを感じている。具体的に言うと、質疑応答が激減した。

発表者以外の人がコメントしても、そこから議論が起こらなくなった。「議論になるようなコメントは面倒、避けてほしい」みたいな雰囲気。

ちなみに私は色々あって今のゼミ長と折り合いが悪く、ゼミの中ではカースト最下位である。ゼミの中にカーストがあるなんてくだらないけど、余計に発言しづらくなったのは事実だ。

 

卒論発表会もやっぱりそんな雰囲気で、なんとか1人の先輩の研究にだけコメントして終わってしまった。*3

構想段階から聞いていて面白いなと思っていた先輩が他に1人いる(仮にAさんとする)のだけれど、Aさんは前日から咳が止まらないとかで来なかった。Aさんは来年度のゼミのことを案じていた人で、みんながサボるゼミのイベントにもきちんと参加しているような人だった。

ほんとに体調が悪かったのかもしれないけど、もしかしてもうゼミを見限ったんじゃないだろうか、そんな風に感じてしまった。

 

多分ゼミのなかで一番ゼミ思いだったAさんがサボってもおかしくないくらい、うちのゼミは崩壊に近づいている。

来年は同期が半分抜けて6人になるし、多分下の学年のなかからも辞める子はいるだろう。自分の卒論も心配だけど、来年の学祭論文(うちのゼミは、毎年学祭の時期に論文を2・3年生がグループを組んで書いている)のクオリティが心配だ。

 

今までのゼミの先輩たちが築いてきたものを、ものすごいペースで崩していく(しかもそのことを後ろめたく思っていない)同期や後輩を見ながらも、情けないけれど、自分がどうゼミに関わっていけばこの状態を変えられるのかが分からない。

去年卒業した先輩たちのような毅然さというものが、自分にはない。

 

某企業のインターンでのフィードバックで「言ってることは正しいのに、自信なさげに見える」って言われて激しく同意したのだけれど、うん、そういうことだね。

 

物腰はやわらかく、でも言うべきことはきちんと言う。

我ながら小学生みたいなしょうもない目標だけど、好きで入ったゼミだ。自分の代で破壊した、なんてことになったら、心底いたたまれない。

 

毅然とした態度を取れるかということと、正しい意見をきちんと言えるかは全く別のことだ。今年度みたいに腑抜けた状態でまた1年過ごしたくはない。

 

1年後、このゼミに入ったことを後悔しなくて済むように。

 

 

 

*1:もっとも怒られても仕方ない状態ではあった。多分キーワードで検索して出てきた文献を要約してまとめたような状態で、正直なところ、そもそも何を研究したいのかがよく分からなかった。

*2:私の大学図書館は、そこそこ蔵書数が多いことで有名な図書館である。その図書館ですら見つからないって相当ではないだろうか…。

*3:もっとも、一度も発言しないでいた現役生の方が多いし、あろうことか発表中にゼミ在籍手続き書類を書いている子もいた。うちのゼミ、来年は大丈夫なんだろうか…。

ブログヘッダー

 

新年だからなのか、突然ブログのヘッダーを変えたくなった。

 

今のヘッダーはなかなか気に入っているのだけれど、ブログタイトル「箱庭と梯子」という文字部分が気になっていた。

 

現在のヘッダー(パソコン版)はこんな感じ。少し見にくいが、左上の小さいブログタイトルを見てほしい。

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「と」が他の漢字と同じ大きさでバランスが悪く見える(実際よりも「と」だけ大きく膨張して見える)こともだが、そもそもフォントが好みではなかった。

さらに、タイトルの周囲に光彩が施されている。はてなブログは他のブログより洗練されたデザインが多い印象だが、この点に関しては公式と分かり合えないと思っている。*1

※個人の勝手な意見です

 

本文のフォントなら変え方は何となく分かるのだが、HTMLやらCSSやらに弱い人間にとって、ヘッダーの設定の変更は不可能である。

画像を作ってアップロードする(そしてタイトル文字を消す)ことにして、とりあえずタイトルを作る。

 

まずは字体から。

私の好みは明朝体なのだが、一般的に可読性を考えるとゴシック体がベストだ。*2

ということで、試しにゴシック体風のタイトルを作ってみることにした。

 

角の丸い四角形を組み合わせて文字を作り(第1案)、太さなどを調節していく(第2案)。アクセントをつけるため、一部は円に変更した(第3案)。

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普通の四角形ではなく角の丸い四角形を使ったのは、普通の四角形だとかなりシャープな印象を受けるからだ。細い棒状にして組み合わせていることもあり、もはやそのこだわりなど風で吹き飛ぶレベルで分からないが、多少は柔らかい感じなのだ。多少は。

 

文字をカラフルにするか単色にするかで多少迷ったが、シンプル第一で単色にした。

完成したのがこれ。

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今のヘッダー画像を下に敷いたところ。自分で言うのも何だが、なかなか良さげ。

ちなみに、ここまでPowerPointで作業している。お手軽。

 

しかし、問題はここからだった…。

 

試しにパソコン版のはてなブログにアップロードしてみたのだが

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こんなに大きく表示したくないんだけど!!!

しかも無理やり拡大して表示しているようで、ぼやけて見える。謎の哀愁を漂わせないでほしい。

 

ブログ本文ではぼやけずに表示できる(下画像)のに、なぜ肝心のヘッダーではぼやけて表示されるのだろうか…?

ここまで頑張ったのに使えないというのも癪なので、解像度を高くしたり画像のサイズを変えたりしてみたが、無駄だった。

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…パソコン版のヘッダーを変更するのは諦めることにした。悲しみしかない。

 

 

ちなみに、スマホアプリ版はこんな感じ。

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 表示領域を変えることができないのがネックだし、こちらも若干の哀愁が漂っているということは否定しないが、一応ぼやけずに表示される。

…このままというのも寂しいので、また気が向いたら装飾を足して華やかにしてみようと思う。

 

 

追記。

哀愁漂うスマホ版は、結局もとのヘッダー画像を使ったバージョンにすることにした。

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これで多少は華やかになったと信じている。

*1:しかしブログテーマのアップデートがきちんとしているのは何といっても公式であり、結局私は今日も公式のテーマ「Report」を使うのだった。

*2:そして、そもそも私のブログ記事は明朝体っぽい(大人っぽい、高級感がある)内容ではないのだった…。かといってゴシック体(カジュアル、かわいらしい)が似合うわけでもなく、大変微妙な立ち位置である。

「自分らしさ」と「私らしさ」の話

お久しぶりです。

放置しすぎて、ついにはてなさんから「そろそろブログ更新してみたらどうですか」メールを頂いてしまった。まずい。

ということで、突然真面目なエントリにはなりますが(自分で言うのも何ですが、紙製ブックカバーとかハロウィンとかふざけた記事書いてた人とは別人のような真面目さです)卒論の構想について書きます。

 

結構前に書いたもので、本当はもうちょっと推敲したりするべきだったのかなぁ…と思うところもないですが、「いつやるか?今でしょ!」のノリで公開します。
ということで、ここから下は下書きのコピペです。

↓ ↓ ↓

 

このブログはもともと卒論を書き始めるのにあたって作ったのだけど、そのことについてはあまり書いてこなかった。
…ように見えるのだけれど、実は下書き扱いになっている記事が結構ある。
その理由は自分のコンプレックスを直撃していたために、書いていて「これを公開できるほどには自分の心の準備ができていない」と感じたから。

感情的になっているのが自分のことながら痛々しい、という感じだろうか。

 


とりあえず卒論の進捗を書いておくと、初期構想を「様々な女性が自分のなかで定義している『女(性)らしさ』と『自分らしさ』の関連を見る」という形に軌道修正してはどうか、とゼミの先生にアドバイスを頂いた。
どういうことかというと、いろんな女性に「『女(性)らしさ』ってどういうことだと思う?」「『自分らしさ』ってどういうことだと思う?」と聞き、「女(性)らしさ」と「自分らしさ」が無関係ではない、ということを確かめる、という方針だ。


「女としての自分に過剰に意識を向けてしまう」ことの背景に個人のどんな体験があるのか、どんな価値観があるのかーそういったことにもともと関心があった自分としては「女性においては『女(性)らしさ』と『自分らしさ』は無関係ではない」という仮説を立てて検証する、というスタイルには若干不満がないわけでもない。
というか正直なところ、ある。ありまくりだ。

 


ただアドバイスを頂いてから考え直すうちに、そういえば女性の生き方に関する言葉には「女(性)らしく」と「自分らしく」だけでなく、「私らしく」もあって、実は今の世の中で一番推奨されるのは「私らしく」かもしれないなぁ、と思った。
このことに関しては男女で対称ではなく(本当は「対照」かもしれないけど、敢えて左右対称的な意味でこの字を使いたい)、なんとなく男性の生き方に関しては「男(性)らしく」「自分らしく」の2つしかない気がする。


今考えているのは、「自分らしく」というオリジナルの発想は男性の世界のものである、ということ。
女性の世界の「自分らしく」はいわば輸入文化で、「自分らしく」と「女(性)らしく」の融合体として「私らしく」が生まれたのかもしれない、ということ。
ついでながら
「自分らしく」自体も日本的な発想ではなく、多分個人主義の強い国からの輸入文化的なものだろう、と思っている

 


現時点では考えというより思いつきに近いのだけれど、社会のなかで「客体」になりがちな女性の姿が見えてくる気がしている。
同時に、性別を男女という2極化扱いすることの弊害も。

 


さて。
なぜコンプレックスど直撃の卒論について突然語り始めたのかと言えば、どうしても書かないといけない、と思ったことがあったから。

 

TEDのトーク "I don't want children — stop telling me I'll change my mind" を見たのだ*1

www.ted.com


避妊手術をした女性・Christen Reighterによるトーク
恥ずかしながら、私は最初彼女の主張をある程度理解しながらも「何も避妊手術までしなくても」と思いながら見ていた。その決断は、彼女の挙げた理由(もっとも個人的な理由については述べていないので、あくまでも女性の避妊手術の一般的な理由ということになると思うが)に対して重すぎるのではないか、と思ったのだ。
何もそこまでしなくても良かったろうに、と。

 


だが、「女の子は子どもを欲しがるように育てられる」という言葉にどきりとした。

 


「私が認識したのは私たちの言葉やメディアに根強く残るある観念ー『女性たちは子どもを持つべきであるだけでなく欲しがるべきだ』という考えです」という言葉は、自分がこれまで考えてきたことに形を与えるヒントとなるような言葉だった。
“One persistent concept that I observed in our language and media was that ー women are not only supposed to have children, they’re supposed to want to.”

 


私は生物学的性やジェンダーアイデンティティの次元では葛藤を抱えていないけれど、大学に入ってから本格的に「こじらせた」人間だ。

 

例えば。
大学の授業で「自分の理想のライフコースを紙に書き、グループ内で発表する」という課題が出たことがある。
私は、どうしても自分が結婚する姿を思い描けなくて結婚・出産については書かなかった。書けなかったという方が正確かもしれない。
結婚・出産を自分のこととして想像することに、少し苦痛を感じたのだ。


当然この点はグループの女子から悪気なく突っ込まれ「ちょっと想像できなかったから」と誤魔化そうと努力はしたのだが、「やべぇわコイツ」という困惑気味の目をされた。


誤解のないように言っておきたいのだが、人生のパートナーと寄り添えることは素敵なことだと思う。だから私は、結婚「したくない」とまでは言わない。
自分のこととして思い描けないだけで。


色々と面倒な思考回路を経て(だからこその「こじらせ女子」である)そういう考えに辿り着いていることは自覚している。そして、その説明を積極的にしようとは思わない。
ただその時、性別にまつわる「常識」はあまりに強固だということを感じたのだった。


Christen Reighterのトークが2分を残すところになった時、ただただ心が揺れていた。
「出産だけではない、結婚もだ」と。

 

トークの最後は、こんな言葉で締めくくられる。

 

「それはあなたの―あなただけの選択です」
"It is yours- and yours alone."


その力強いトークに勇気付けられながらも、果たして自分はそう言い切れるだけの強さがあるだろうか、という疑問がよぎる。


今の自分は結婚・恋愛の話からも避け続けている。
学生である今はいい。それらはあくまでも「仮定の話」としてやり過ごすことができる。
でも、社会人になったら?


「自分らしく」と「女らしく」がライフコース上で対立したら、どうすればいいのか。
今の自分は多分、その問いにぶち当たることを過度に恐れているのだと思う。

*1:以下、引用は字幕に準じていますが、英語のリスニングは自信がないので間違っているかもしれません。悪しからず。

ちなみに日本語版の字幕では一部「避妊手術」と訳すべきところを「不妊手術」としているような気がします…直したい…

紙製ブックカバーの話

また更新をサボっていたわけだが、この数週間ブログのことを綺麗さっぱり忘れていたわけではない。
一応過去のお題「リラックス」・「紅葉」でリード文までは書いたのだが、ボツ。
「ハロウィン」の時の文章もカオスだったとか言わないで


お題スロットも覗いたものの今の気分にしっくりくるものがなかったので、今回も「今週のお題」に頼ることにした。


最初は素直に自分が最近読んでいる本について書こうかと思ったのだが、ふと「書かねば」という謎の使命感に駆られたのでブックカバー、それも紙製ブックカバーの話をする。


どうも改めまして、ブックカバー未装着の本を持っている人を見るたびに「スマホにカバーはつけるのに本にカバー付けないのはどういうこと!許さん!!」と思っているブックカバー過激派の人間です。


私は紙製ブックカバー推し(次点で固めの布製のもの)なのだが、そういう人に対して世間は意外と優しくない。


書店だと紙製のカバーをかけてくれるが、シワが寄ったり汚れが付いたりしてしまうことがある。他の本に付ける時も、折り目が目立って不格好だ。
そうすると自分で掛け直すしか解決策はないのだが、代用できる紙というのが案外ない。


ということで、紙製ブックカバーに使える紙についてひたすら語ることにする。我ながらしょうもないなこのテーマとか思うが、気にしたら負けである。

 


①紙袋
まとめサイトなどで結構推奨されている。が、個人的にはあまりおすすめできない。
紙袋の防御力は高いしそこそこいい紙だし、何よりデザインもいいものが多い。


しかし、固い。某文庫が夏のキャンペーンで配布していた限定カバー並みに固い。固くて何が悪いとお思いかもしれないが、美しく折れなかった日にはテンションだだ下がりである。

某キャンペーンが成立するのは、あらかじめ折り線があるからだと思っている


しかも(紙袋の大きな面を使っても)その面だけではカバーできないこともある。その結果、面と面の境界線(すなわち折り線)をまたぐことになる。ここをポケットの折り線にしてしまえばいい話なのだが、悲しいかな、ここの線の周囲は大体傷が多い。


さらに、お店でもらった紙袋の場合は家に持ち帰るまでに大抵どこかぶつける(私だけだろうか…)。ブックカバーを使っていればいつか傷が付くのは当たり前なのだが、使う前から傷だらけなのは頂けない。気分の問題である。

 

 


②包装紙
ここでは貰い物の包装紙(折り目だらけ)ではなく、文房具店などで売っているかわいい包装紙の話をする。

だいたい筒状に丸められていて、これでもか!っていうくらい跡がついているのが残念だが、伸ばしてから掛ければ何とかなる。気合いだ。


弱点というか注意点は、包装紙というものは秋冬にかけてクリスマスの影響をもろに受ける商品だということだ。この時期の包装紙の色は赤か緑か白、さもなくばサンタかトナカイかクリスマスツリーが我が物顔に鎮座しているものばかり。
違うから!主役は君らじゃないから!!包んでるプレゼントだから!!!
と思い始め、そもそも包装紙でブックカバーを作ろうとしている自分の発想が邪道であることを悟ることになる。

 


③コピー用紙
プリンターで印刷したり、ハンコやシールなどでデコったりして自分好みのデザインにできるという素晴らしいメリットがある。


しかし、残念ながら防御力は皆無。ぎゅう詰めのカバンに入れようものならすぐシワが寄る。何なら破れる。折った角が曲がる。
真っ白な紙だと透けるし、汚れが目立ちやすいという弱点もある。


さらに個人的には、一般的な家庭にある(であろう)A4サイズだと小さすぎる点は致命的だと思っている。
文庫や新書なら辛うじてカバーできるが、私は上下の折り返し(裏部分)は最低2cm・左右(折り返しポケット)は最低5cmないと許せない人間なので、1枚ではカバーできない。
2枚を貼り合わせてカバーしてもいいのだが、そこはかとない残念感が漂う。ちなみに「そこはかとない残念感」とか言いつつ、私が書店カバーの代用品としてお世話になっているのがこの方法である。


そんな人に対するアドバイス
・両面テープを使って貼る(セロテープは見映え的にダメ絶対)
・貼り合わせた部分の表側はマスキングテープを上から貼ってごまかす
以上2点を踏まえれば、そこそこ見栄えのするカバーが作れる。若干透けるが。


話は逸れるが私が推しているマステメーカーは「BGM」である。
キウイとさくらんぼの柄のマスキングテープを衝動買いしたことがあるのだが、かわいい。とてもかわいい。もともと乏しい語彙力がさらになくなってきた。

 

 

さて。
ここまで紙袋と貰い物の包装紙をディスってきたわけだが、両者のデザイン性を否定しているわけではない。ブックカバーには不向きというだけで、素敵なものは多い。
それなら、栞にしてしまえばいいのである。
もちろんそのままだと栞向きの固さではないので、ラミネートをすると良い。
ということで、(紙袋と包装紙以外で)ラミネートをすること前提で栞向きの紙についても書く。


・カレンダー、ダイアリー
卓上カレンダーなどでは、装飾が凝っているものがある。ここを切り取り、ラミネートする。
この方法だと六曜が入ってしまうことがあるが、小さめのシールなどで隠してしまえば問題はない。
思い出の月などがあれば、捨ててしまう前に試してみてもいいかもしれない。


・ミニカード、便箋など
上と同じく、柄のところを切り取ってラミネートする。書き損じのもの、捨ててしまうものなどがあれば試してみてほしい。


・チラシ
ブランドのものであればデザインもすっきりしていて、綺麗な栞にできることが多い。また不動産広告などでは綺麗な空の写真を使っていることも多いので、使ってみてもいいのではないだろうか。
値段などの情報入りだと使っていてテンションだだ下がりなので、別の紙と貼り合わせてラミネートすると良い。

 


以上、あまり需要のなさそうなことを思いつくままに書いてきた。
もし参考になる部分があれば幸いである。

 

 

 

追記。

100円ショップでは本の各種サイズに合ったビニールカバーを販売していることもあるので、薄めの紙をセットして使う手もある。

私のように紙の手触りを楽しみたい人には向かないかもしれないが…。

 

*○*○*

今週のお題「読書の秋」

ハロウィン

ちゃんとブログを書こうと考えながらも実際には何も更新できていない。
書きたいことはたくさんあるのに、書き始めたところで「おいおい何だこのおちゃらけた文章は」と自分の中でストップがかかる。

さすがにこれは良くないと思い、はてなブログの「今週のお題」に頼ろうと思った。
そこまではいいのだが

 

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マジか。


世間がバカ騒ぎするようなイベントに対して、「はてなブログは斜め45度くらいの冷めた視線を送ってる」みたいな勝手なイメージを持っていたんだが…。
※偏見です

はてなブログ、お前もか。

 


お題スロットも初めて使ってみたら面白かったけど、やっぱり自分では絶対ハロウィンをテーマにして書かないだろうし、いい機会だと思って書いてみようと思う。

 

前置きは長くなったけれども。
「今年のハロウィンをどう過ごすか」ということであれば、アルバイトということになる。
某商業施設のなかにある書店でバイトしているので、悪く言えば俗っぽい(そして無駄に煽ってくる)BGMを聞きながらひたすらブックカバーを掛けたり袋に入れたりすることになりそうだ。


このBGMというのがやたらとテンポが早くて騒がしい曲で、店員を焦らせてミスを誘発する感じの曲なのだ。ここ1ヶ月ほど流れているから慣れてきたが、お願いだから何かとバタバタする閉店間際まで流すのはやめてほしい。
ちなみに明日からは煽る系のクリスマスソングが流れる可能性が高い。今からとても心配だ。

 


…話が盛大に逸れた。
バイトの前後でハロウィンに関係のあることをするかと言えば、そんなこともない。
バイト前は大学のゼミの作業をしているだろうし、バイト後は帰って寝るだけ。

今月はスマホの通信量が最大限まで達してしまったので、今日の移動中は(課題関係の調べ物や作業を含めて)できることはほとんどない。

 

自分は今年ハロウィンと何か関わったっけ、と振り返っても、あまりなかった。
バイト先でハロウィンのBGMを聞く以外だと、ニュースで渋谷の様子を見たのと、LINEのトーク画面がハロウィン仕様になっていたくらい。ほぼ他人事だ。

 

ハロウィン自体が嫌いというわけではなく「人に迷惑かけない範囲で個々人が楽しめばいいんじゃないでしょうか」というスタンスを取っているだけなのだが、どうして自分は世間でこれだけ盛り上がっていることに無縁なのか。

一緒に楽しんでくれる人がいないからか…という結論に達しかけ、虚しくなってきたのでこれ以上考えるのはやめる。


まぁ、ハロウィンの仮装衣装は非日常的で綺麗なものも多いから、見ているだけでも楽しいだろう。Instagramで投稿をのんびり見るのもいいかもしれない、という考えに至り、ふと気づく。


通信制限されてるんだった。

 

何この疎外感。
スマホ通信制限ごときで、なぜこれほど世間から疎外されているのを感じないといけないのか。

意味が分からない。意味が分からないけれども。

 

誰もがスマホなどの端末を当たり前のように持つようになり、文字や写真で可視化された「今、誰が何をしているのか」を消費する。

他人の生活空間(それは時として「世間」ということにもなるだろう)と自分のそれが限りなく近いものになったという側面は否定できないと思う。近いどころか、重なっている部分もあるかもしれない。

他人の生活空間は今や自分と無関係ではなく、端末で何か操作をする度に、自分の世界は変化せずにはいられない。


その意味では、スマホに世間が宿っている気がする。

世間と呼ばれる―いや、そう呼ばれていた、本来は抽象的だったものが。

世間はあまりに生々しくなった気がする。なくなったとまでは言わないけれども。

 

 

とりあえず今の私の最大の関心事は、あと数時間後に解除される通信制限である。

「何もかもスマホでこなしすぎじゃないか?」と自分で自分にドン引きしながらも、結局私はこの電子端末がないとやっていけないのだ。

 

そんな、何かと不自由なハロウィン当日である。

 

 

*○*○*

今週のお題「ハロウィン」

研究テーマ

卒論の構想を少しずつ書いている。

自分は喪女とこじらせ女子のどちらを扱いたいと思っているのかが分からなくなってきて(どっちにしろ当事者研究という形になりそうだが)、少し前は喪女板をひたすら読んでいた。

なんというか、読んでいて非常に辛かった。

悪気なくぶつけられる言葉が価値観を変えてしまうことがあることは自分も身をもって知っているから、「同情」とか「共感」とかのような甘っちょろい言葉では片付けられないような感情がぶわっと出てきて、苦しかった。

 

 

それから今度は、雨宮まみさんの『女子をこじらせて』を読んだ。

これは1年前に読んだことがあるのだけれど、なんというか…こんなに強烈な本だったっけ、と思った。

それでも、読むのを止められなかった。

こじらせ女子という言葉は時に悪意をもって使われるような気がしているのだけれど、その言葉に追加されたニュアンスを弾き飛ばすくらい力強いエッセイだなぁ、と思ったから(…まぁ「こじらせ女子」って言葉が誕生したのはこのエッセイが書かれたからなので、時間軸的におかしいかもしれないけど。文庫版のあとがきは特にそんな感じなので見逃してください)

「前向き」とまとめてしまうのは乱暴な気もするのだけれど、もがいている著者の言葉はすごく生々しくて、それゆえのエネルギーに満ちているように感じた。

 

 

それで、ここでぐるぐる悩んでいた。

喪女とこじらせ女子のどちらでも、自分以外の当事者の語りを聞くことで得るもの、知るべきものがあると思った。

言い方は悪いけれどどちらも魅力的で、どちらをテーマに据えればいいのかが分からなくなってきたのだ。

 

 

今度は社会心理学の本を読んだ。

ジェンダーステレオタイプと自分らしさの2つが衝突することで苦しさが生まれる、その苦しみから流れるには「自分らしさ」を追求してください…みたいなことがさらっと書かれていることに、正直違和感があった。

自分の内面の葛藤を「私は私らしく生きる!」という意志の力でねじ伏せている、みたいな印象があったのだ。

 

なぜ「女性らしさ」という言葉に苦しまなければならないのかと言えば、外見・行動・パーソナリティ…といった、自分を構成する色んなことがジェンダーステレオタイプと結びついているからだ。

「自分」とさらっと書いてしまったけど、これは純粋に自己を指しているわけではなく、他者(の一部)を含んだ自己概念を指すイメージだ。具体的には交友関係など。

 

そんな複雑な問題を「自分らしく生きる」という解決策で片付けていいのだろうか?周りは変わっていないのに。

いや、「変わる前から変化する努力をぶん投げるのもどうなのか」という感じではあるのだけれど。

 

私は「女性らしく生きる」も「私らしく生きる」も、社会的に推奨されている2大スタイルのように感じていて、そのどちらかだけを良いものとして追いかけていくのは危ういなぁ、と思っている。

あとこれは個人的な考え方だけど、それしか生き方ってないのかな、と疑問に思う。「女らしく」呪文や「自分らしく」呪文を唱えられてるみたいで、なんとなく閉塞感ない?

 

生き方くらい好きに選ばせてくれればいいのに、と思う。

「自分らしく生きる」という考え方には賛成なのだけれど、その言葉を唱えられるたびに「自分らしく生きる”べき”」と言われているように感じるのだ。

大げさだと思う人もいるだろうけど、物心ついた頃からあらゆる場面で「個性を尊重」呪文を唱えられてきた私は「自分らしく生きないとダメ」と言われているかのように感じてしまう。

 

…まぁ、こんな感じでぐだぐだ考えていた。

もうどこから手をつければいいんだか。

 

ただ、「自分らしさ」と密接に結びついているのは「こじらせ女子」かな、と思った。

それ以外にもこちらに絞った理由はあるのだけれど、もう少し考えがまとまってから書こうと思う。